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水沢澄江さんからのメール

2025/11/10 (月) 8:50

おはようございます。

辺野古報告添付しますね。  水沢 

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辺野古報告2025・10B.pdf
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辺野古報告2025.10    2025,10,22-11,1

 

 今回は、海況が悪く、約10日間で1日しか海に出ることができなかった。埼玉では秋から冬にかかろうとしていたのに、沖縄に来たら昼間はTシャツで過ごせる暑さだった。

<工事の進捗状況>

 ずっと、強風、高波と海況が悪く、海に出ることができたのは1日だけだったので、工事の状況はよくわからない部分も多い。A護岸の「矢板鋼管」の打ち込みは、昨8月20日に始まり、今年2025年9月末で330本という。計画では、約1000本打ち込み、その後、中詰工、上部コンクリート工を合わせて約4年の工期となっている。海上ヤードは落とす石があれば、ユンボが動いて落としているが、海況が悪く、塩川から捨て石がなかなか運べていない。

軟弱地盤改良の砂杭打ち、2025年1月29日(サンドドレーン工法)、2月19日(サンドコンパクション工法)と始まった。あの「サンドコンパクションパイル船」(SCP)は6月9日に「台風を避けて?」大浦湾を離れていたが、9月に1隻戻るも、すぐにまた、いなくなった。今年はまだ台風も来ている。防衛局の発表だと、打ち込んだのは9月末で2900本とのこと。サンドコンパクションパイル工法、サンドドレーン工法、ペーパードレーン工法合わせて7万1千本の砂杭を打つ、このペースだと13年かかる(北上田さん)。

最も軟弱地盤が深いといわれるB27地点。別の3地点からの調査資料で、B27地点も推測できると、ずっと強弁していた防衛局。だが2024年8月からB27付近で「ボーリング試験」を実施していた。北上田さんが、その資料の開示請求を行うと、1年7か月後に開示するという回答。「隠したい」としか思えない対応だ。今回は、別の「スパッと台船」がB27地点付近で、ボーリング調査の棒を海中に降ろしていた。

海に出られない日が続いたが、今はスマホのアプリで船の動きを追うことができる。連日、海砂採取船の動きを追ってくれているNさん。毎日丁寧ネットに報告を挙げてくれている。複数の船が、何ヵ所かで採取をしているが、海況が悪いからか大浦湾には入らず、中城港に行ったりしている。「海砂」採取に関しては、採取すること自体に環境に大きな負の影響があるが、とりあえず、県の許可が出ている採取地、採取方法、運搬にも約束違反が多々あり、防衛局との交渉を何度か行なっているが、今後環境省との交渉も考えている。

N1,N2の護岸あたりも、埋め立てが始まるんじゃないかと言われているが、フロートの外からはよく見えない。K9護岸から見える陸地側の工事も、ユンボ、クレーンが動き、「破壊」と「改変」を次々に行っている。この辺りは美謝川の流路変更の河口になるはずだが。陸の工事もすさまじい。キャンプ・シュワブを挟んだ国道329号線の両側たるや、何をどう作っているのか追いかけられないほど、臨時の塀の内側、外側で、工事はダイナミックに行われている。

今回、安和、塩川は行けなかったが、塩川は時々、捨て石だけの積み込みとか、安和も午前中で終了とか、天候の影響が大きいのだろうが、「日祝日もやる」と防衛局が意気込んだわりには、遅々としているように見える。

<宮城島に行ってきました>

 海に出られない日が続いたので、船長のKさんの運転でうるま市宮城島に行きました。宮城島からの土砂調達は、44,763(千㎥)のうち300(千㎥)という1%にも満たないわずかな量だけど、2024年11月20日から採取、搬出が始まった。経路も申請とは違うルートに変更し、農道を過重な土砂を積んだトラックが1日に何台も行き来する。うるま島ぐるみの人たちを中心に、抗議の運動が粘り強く続けられている。私たちが行った時は7~8人いたかな。年配者が車で乗り合わせてきている。この日の責任者は沖縄国際大学名誉教授の照屋博之さん。東京にも何度か講演に来ている。10時前に着いて、鉱山の中ではガンガンと岩を削っていたが、この日はダンプは鉱山から外には出てこず、しばらくすると機動隊車両が2台帰っていった。11時過ぎに「今日はなし」と、解散になった。久しぶりに山城博治さんに会った。7月の選挙疲れで体調を崩し、まだあまり元気ではなかった。照屋さんは、現場の警備責任者とも話ができ、責任者は博治さんとも顔合わせをしていた。

ここでの闘いは、バナーをみんなで持って、ゆっくりと歩く。ダンプ出口を歩くのに1時間を掛ける。“集団牛歩”みたいなものだ。1日に何回か繰り返す。当初、座り込んだが、10分で排除されてしまう。それで、この形を考え出したという。ダンプの運ちゃんも、警備担当も、暗黙の了解で、抗議、意思表示、少しでも遅らせる、という行動となっている。「ムカデ」と言っていたかな。それぞれの場でのそれぞれの工夫がある。キャンプ・シュワブのゲート前だって、当初は手探り、工夫、試行の連続だったなあ。その後、県警、機動隊は「強権的」「機械的」「無機質的」になり、一時はささいなことでの逮捕も続き、今のような形になってしまった。決してそれでいいと思っているわけではない。宮城島では、まだ、原初の形が保たれている。

宮城島はうるま市。うるま市はたくさんの闘いを強いられてきた。古くはあの宮森小学校に、米軍ジェット機が墜落した1959年の事故もうるま市石川でのことだ。1966年には天願桟橋の基地強化のため、米軍は昆布の土地の接収を試みた。住民の粘り強い抗議行動で1971年には計画を断念する。「一坪たりとも渡すまい」はこの闘いの中で生まれた歌だ。住民が勝利した数少ない闘いがここにはあった。最近では、陸上自衛隊の訓練場が、ゴルフ場跡地に作られようとした。「青少年の家」も近く、宮森小事件のあった地に、とんでもないと反対運動が広がった。自民党県連が反対したことも大きいといわれるが、計画を撤回させた。近年、政権側が当初の案を「撤回」するということは、滅多になく、いわば「快挙」ともいえる。

そして「勝連分屯地」。陸上自衛隊第7地対艦ミサイル連隊本部が勝連分屯地にある。「南西諸島」につらなるミサイル部隊の司令部ともなるのではないか。2025年の自衛隊統合演習は10月20日から31日まで行われた。「ミサイル配備から命を守るうるま市民の会」は、勝連分屯地前で80人で抗議集会を開いた。

<闘いの今>

海に出たのは1日だけだったが、その日は土曜日ということもあり、8艇のカヌーが出た。入域した船は1隻だったので、抗議はせず、A護岸へ向かった。「鋼管」は5本台船の上にあったが、打ち込みのクレーンは上がっていない。しばらくここで待機することに。K船長さん、遠い南から来ているのに、朝早く起きて、3種類のコーヒーを淹れ、ポットに入れてきてくれる。お連れ合いの手作りスウィーツが付くこともある。みんな実は楽しみにしている。早速カフェタイムとなった。

 1時間が経ち、動きがないので、A護岸を離れようとしたら、クレーンが上がり始めた。私たちは船からカヌーに乗り移り、オイルフェンスの隙間から中に入り、作業台船に向けアタックをした。私は早々とつかまってしまったが、Kさんが凄かった。カヌーめがけて、海保が飛び込んでカヌーを「確保」するのだが、熟練者は、「リーン」をかけカヌーを回転というか急激にカーブを切る。飛び込んだ海保はカヌーを捕まえることができない。これをKさんはこの時3回繰り返し、飛び込む海保を3人かわした。かなり作業台船に近づいた所で「確保」された。「快挙」!海保のGB(ゴムボート)に乗せられたKさんは、さすがに息を切らしていた。この日、もう一度アタックをしている。拘束され解放された後、移動すると、「軟弱地盤」B27地点にいる調査船のポールが海中に降りていた。調査中なのだ。このやぐらに向け、再度アタック。ここでもKさんは凄かった。再びの3回かわし。

 私は?、これまで2度ぐらい、1回かわしたことがあるけど、股関節を痛めて以来、足に力が入らない。それでも1艇いるだけで、おとりにでもなれたらとカヌーを漕いでいる。KZさんに教わった、腰当てのところに座布団のようにライフジャケットをもう1枚敷くと、足の角度が変わり少し楽になるのだ。

<その他もろもろ>

1)ゲート前

 海上行動の中止が続いたので、キャンプ・シュワブゲート前には何回も行った。4日ぐらい9時、12時と座り込んだ。朝は人が少なく、常連さんが座る。10人足らずで、歌を歌い、スピーチをし、機動隊に排除されていく。排除されたあと、ダンプが入っていくのに1時間弱かかるようになった。この間のマイクを持った司会者やコールを繰り返す人はつらいだろうなと思う。これが1日、3回繰り返される。

 いくつか印象に、残ったことを書く。朝、昼と何回かお会いした中に、大城敬人さんがいた。85歳の名護市議会議員だ。マイクを持つでもなく、座り込み、排除されていく。すごいよなあ、議員は大きな集会があると来て、アピールをする。でもこの毎日の繰り返しの現場に足を運ぶ議員は今はほとんどいない。「2004年からお会いして知ってますよ」と声をかけた。当時、彼は毎日テントに来て、自分で刷った会報を配り、「立て板に水」とでもいうような話しぶりで、工事のこと、政治状況のみならず、生活の知恵のようなこともしゃべり続けた。私が20年来通ってるということに、非常に喜び、両手で握手をしてくれた。

 次に、ある人がマイクを持って歌った歌がとても印象に残った。軍備増強に反対すると、必ず言われるのが、「攻められたらどうするんだ」。その替え歌は、「私(私たち)は武器を持たない。たとえ滅ぼされようと武器を持たない。そういう民族(国?)があったと後世語られるだろう」(正確ではないが)そんな感じの歌詞だった。攻められたらどうするんだといわれると、そうさせないのが政治で外交だと言ってきたけど、武器を持たずに滅ぼされよう、というか、滅ぼされようとも武器を持たない、というのは何だか私には沖縄のことのように聞こえた。

 ヘリ基地反対協の役職は降りて、「引退?」した人がピンチヒッターで司会をしていた。安次富浩さん、仲本興真さん(公的に名前出していた人だから名前で)後期高齢者だけど、まだ80歳にはなっていないはず。いろいろの事情で表からは退いたけど、元気、そして話したいこともいっぱいあるようで、マイクを持つと熱がこもって熱く語り続けた。安次富節、興真節と懐かしかった。

 10月28日に、琉球新報の取材を受けた。29日が「本体工事着工」の日なので、記事を書くため船に乗ろうと思ってきたけど、海上行動なしなのでゲート前に来たという記者。入社して4年、北部担当3年と若い。「話をしてもいいけど、新聞に名前を出したくないというと、これまで、みんな、じゃあいいですと去って行ったけど」と言うと、匿名でいいですというので話をした。いくつもの「記念?」の日があって、10月29日って、私は覚えてなかった。

205年、翁長知事が、埋め立て承認の取り消しをしたわずか16日後に、本体着工と防衛局が報道機関にFAX送信。そうか10年経つんですね。当時を思い出しながら少し話をした。「今から考えると、アジサシがシュワブ岩に営巣し、浅瀬の海岸には青いリュウキュウルリスズメダイがいて、どこかのどかで、工事現場は近く、まだ止められると思ったこと。闘う側も高齢化して厳しくなってきているけど、戦争につながるものは沖縄は認めない、NOという意思表示をしていく」というようなことを話した。琉球新報と、何日か遅れの東京新聞に、カヌーチーム74歳女性、として発言の要約が載っていた。

「辺野古塾」と呼ばれたゲート前テントでの学習会がこれまでも何回か開かれていた。10月30日に行われたのは、沖縄国際大学講師・川満彰さんの「政治と行政の戦争責任」。戦争ができる法律が整備され、愛国心・軍隊を正当化させる教育が行われ、社会がそのように動いていく今の現実が語られる。そしてマスメデアが果たした役割が、当時の新聞報道を再録した資料として配られた。今、進んでいる、そして高市政権の下、進められようとしている近未来に重なり恐ろしい。60人が参加した。

もう1件。第4土曜日に、名護市街で街頭宣伝を行っている。車社会の沖縄ではマイクを持っても、信号で止まっている十数秒しか、話はつたわらないのだが、交差点にバナーを掲げ、アピール活動をしている。この日、具志堅徹さんが来てくれた。長く、辺野古で船長をし、名護市議会から県議会議員を務めたが、その後、脳出血だったかな?病気で療養。党の人だったけど、幅広く話も面白かった。86歳になるという。リハビリだと言ってマイクを持って、大きな声で「ノーワー」と何回か繰り返した。嬉しいサプライズだった。

2)伊江島

 日、月と援農に行った。股関節不調で、どれだけ働けるかわからなかったが、謝花悦子さんに会うだけでもと思って行った。87歳とのことだが、歳をとるのは。誰にも止められない。本人も、「いつまで元気でいられるか」と、よく言うようになった。最近は尋ねる人が毎日のように来ると。私は畑と道の脇、ドラゴンフルーツの畑の雑草を取った。前回雑草取りをした畑は、人参、玉ねぎ、春菊、大根、と芽が出ていた。ドラゴンフルーツが実を付け、食べられたのも嬉しかった。私は初日の労働で、夜、寝返りができないほど腰を痛めた。

 で、今回書きたかったのは、2日目に、和光小学校の6年生80人が来たことだ。和光の生徒が来るようになってもう39年目だという。謝花さんの話を静かに聞き、それぞれが持つノートにメモをしていた。よく事前学習をして、沖縄を知って来ている。全員合唱も素晴らしかったし、全員で演じたエイサーが感動的だった。大きな太鼓、小さなパーランクー、踊り、三線の演奏に合わせて、それぞれが自分の役割を、楽しそうに身体いっぱい動いていた。太鼓が主役というわけではなく、みんなが嬉しそうだった。踊っている女の先生もいて、後で聞くなら校長先生ですって。

3)「太陽の運命」

 沖縄の大田知事と翁長知事を描いている。本当いうと、こういう映画は、対象の人物を英雄視しがちだから、あんまり好きではない。まあでも、海に出られず、桜坂劇場も初めてだったので,Kさんに誘われ行ってみた。歴代の知事が登場してくる。私は政治家は信用しておらず、どんなに人々の味方で、代表だと思っても、首長の座に就くと人は変わるもので自己保身を優先する。あるいは、意に反したこともやらねばならない。民主党政権や、村山富市、土井たか子、スターリン(ここで出てくるか?)・・・。だから信用していないというか、政治家ってそういうもんだと限定付きで見ている。何度見ても、仲井真は悪い奴で、稲峰恵一は調子のいい奴で。大田昌秀は「代理署名」を拒否して、裁判で負けた後、署名しちゃったのは「汚点」のように思っていたけど、本人かなり苦悩したのですね。なんとその時の代執行を行ったのが、村山富市なんだよなあ。

 満面の笑みで、大田知事と橋本首相が握手をして、「普天間基地返還」を発表したけど、その後大田は、「だまされた」と思ったようだ。「政治屋は信用できない」。橋本総理と17回会談をして決裂。後、議員にもなるが、沖縄の人として政権への対峙がゆるがなかったのはすごい。

 翁長知事は、県会議員時代、大田降ろしの急先鋒となる。それが変わったのは、「教科書問題」(「集団自決」はなかった)と、オスプレイ配備反対、辺野古新基地反対で、沖縄の全首長が東京に請願に来た時だ。安部総理はなかなか会おうとせず、銀座のデモに右翼が罵声を浴びせ襲い掛かった。その時、私もそこにいたが「どぶねずみ」「売国奴」「中国に帰れ」・・、ひどい言葉が大音量で浴びせられ、実際にデモ隊に襲い掛かろうとして機動隊が止めていた。沖縄から来た首長たち(多くが保守を自任する)にとって、これはショックだったはずだ。これを転機にした翁長知事の、権力に対峙する姿勢はそれなりに凄い。

 沢山の人が出てきて語る。お連れ合いの翁長樹子さんの言葉が印象に残っている。「国は言うことを聞いてくれない。裁判所も味方にはなってくれない。だから、闘う姿を、必死になって抗う姿を県民と全国民と全世界の人に見てもらうしかない。政府に押しつぶされる姿をみんなに見てもらうしかない」。知事になった日に樹子さんに言ったそうだ。すごい覚悟だよね。沖縄が差別される、沖縄が押しつぶされる、それを見てもらおうじゃないかと。

 ぶれなかったですね。菅官房長官との会談も、「粛々とと何度も繰り返すのは上から目線で、自治は神話だと言ったキャラウエイと重なる」。「沖縄の歴史は知らない」という菅に、「違う時代を生きてきたのですね」(記憶によるなら多分)と言っている。

 副知事をやった謝花喜一郎さんの話も心に残る。「埋め立て承認」の「取り消し」を「取り消された」翁長さんは、次に「撤回」を模索する。膵臓癌で、命尽きようとする4日前、謝花さんを病室に呼んで、「撤回」を進めるよう託す。死後、謝花さんが撤回を表明する。奥武山公園で行われた集会で、謝花さんは、翁長さんがかぶるはずだった青い帽子を演台に置き、涙ながらに語ったのが記憶として残っている。

4)軍事演習など

レゾリュート・ドラゴン。日米共同訓練が9月に行われた。九州・沖縄を中心に、8道県で、米海兵隊と自衛隊合わせて1万9000人が参加した。そして10月には「自衛隊統合演習」が自衛隊員52300人、米軍5900人、豪軍230人が参加して行われた。自衛隊演習では過去最大規模で、北海道から沖縄まで全国にまたがる。2つの訓練の内容は、実弾演習も含み、戦闘部隊の機動展開、施設訓練、電磁波、情報収集、通信、補給、輸送、滑走路復旧、治療・後送等々、具体的な訓練であり、日米の指揮系統のシュミレーションなど、実戦を想定して行われている。

 公道、港湾での動きを止めようと、石垣島、宮古島では住民異よる反対・抗議活動が行われた。それらに対し、中谷防衛大臣は「妨害行為」であると批判。戦争反対の抗議行動が「妨害」であると言われ、沖縄の伝統的な「全島エイサー」への自衛隊参加の「見合わせ要請」に対しては「職業差別」であると。宮古島では、公道での「行軍」訓練への抗議に、比嘉警備隊長が大声で、許可を取れと「恫喝」した。

 沖縄では、日常生活の中に自衛隊が入ってきている。肌感覚で、戦争のにおいが漂っている。それに抗する人たちは高齢化している。「一戦を交える覚悟、刺し違える覚悟」と勇ましかった与那国の糸数健一町長は選挙に敗れ、去ったが、沖縄の民意は、50歳以下の選挙民の34割が参政党に投票するという「あやうい」現実がある。

 高市政権の下、これからも、様々な困難と、強権的な弾圧も予想される今日の日本である。人生の最期、こんな時代にタイムトラベルで来てしまったのかと思う日々である。

 

 

水沢澄江さんからのメール

2024.09.08

こんにちは。

大浦湾の工事がついに始まってしまいました。

 サンゴの白化は目を覆うばかりです。  水沢 

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辺野古報告2024,8     水沢澄江 2024_.1~8.31

 埼玉で、猫ともども、3738度の熱謝日に喘いでいた私は、沖縄に行けば32度、「避暑」だよなあなんて甘く考えていたけど、那覇空港に降りたら、暑いこと暑いこと。帰る頃には秋めいた風を感じたけれど。他方、辺野古の現場では大変な事態が進んでいた。

<大浦湾の工事>

(1)   本格工事が始まる

大浦湾には「軟弱地盤」がある。軟弱地盤は海底90mにも及び、その深さの工事をした経験もないし、機材もないし、技術もないし、埋め立ては「不可能」だと言ってきた。ここの工事に手を付けるのは、防衛局・国側も、さぞためらうだろうと思ったが、始まりました

昨年末1228日、デニー知事が「不承認」としていた大浦湾の「設計変更」を、「代執行」で国土交通相が「承認」し、24110日に、大浦湾の海上作業ヤードに石材が投下され始めた。6月末に安和でダンプによる死傷事故が起こり、塩川からの石材の補給が途絶えているので、現在、この作業ヤードの投下の動きは止まっている。

防衛局は新たに8月から「護岸工事」を始めると通告し、7月には試打ちを行った。実際にくい打ちが始まったのが、台風の影響で820日。私が海に出たのは8月22日。くい打ちは始まったばかりだった。地図がないと分かりづらいが、大浦湾埋め立て地域の瀬嵩側端の「A護岸」に着手したのだ。工期は4年。「鋼管矢板」という金属の杭をA護岸543mに打ち込んでいく。ここは軟弱地盤からは少し離れている。

822日、船1隻、カヌー5艇で、A護岸まで行く。9時ごろ、すでに作業は始まっていて、鋼管がクレーンで持ち上げられ、それの上部を「バイブロハンマー」が掴んでいる。バイブロハンマーというのは、トン単位の重さの重機で、振動によって鋼管を打ち込んでいく。カヌーは、フロートを越え作業現場向けて漕ぐが、海保にあっけなく捕まってしまう。だが、打ち込みの作業が止まったと思った。よし、私たちが近くにいると作業が止まるからと、暫くそこに留まるが、どうも、止まっているのは、私たちのいるせいではないと判断。打ち込みの微調整しながら、中断したり、打ち直したり、“丁寧”にやっているようだ。

午前2回、午後2回とカヌー5艇でアタックするが、あえなく拘束される。「工事をするな」という意思表示にはなっても工事はなかなか止められない。実は1度だけ、私は「今日は快挙」と思えるほど近づくことができた。海保が飛びこんで捕まえようとするのをかわしたし、見ていた人から拍手もされた。

太く長い鋼管が、大浦湾に「無神経」に打ち込まれていくのを見て、そして、海保の面々が、待ち構えたように私たちを拘束することに、いつもは“冷静”な私は、かなり怒鳴り散らした。「海を守るという海上保安官が、海を壊している工事を止めないで、海を壊すなと言っている私たちをなぜ捕まえるんだ」「やっていることが逆だろ。海を守らない海保ならやめっちまえ」。大きな声で海保を怒鳴る私に、海保は「落ち着いて、興奮しないで」、さらには「暴言を吐かないで下さい」だと。「海保のスローガンは海を守ることだろうに、守れないならやめろというのは暴言じゃないだろ」。かなり近い目の前で海に杭が打たれているのは何とも我慢ができなかった。

大浦湾の風景は来るたびにどんどんと変わっていく。広い広い海域が、「臨時制限区域」として囲われているが、ここに既に、ランプウェイ台船、ガット船、何台ものクレーン台船、開始した鋼管矢板を打ち込む台船、台風時のフロートなどを引き上げ仮置きする台船、土砂の仮置き台船、海上ヤードに投石する台船、台船を牽引するタグボート、フロートの開閉・修理の作業和船・・、20は超える船籍が停泊し、動く。計画書によるなら、最大100隻の船がやってくる。

私がいる間にも、これまでの土砂の陸揚げ場所だったN2,K9が新たな工事で使えなくなり、変わりにK8からの陸揚げのために、4台の台船がN8に設置された。さらにくい打ち台船と同様のものがもう1隻入ってきて、どうも、「ボーリング調査」に使うようだ。まだ、私には分からないものもあり、目の前に見ていてもよく分からないのに、図もないこの文章では、読む人には更に意味不明で申し訳ない。

「計画書」によるなら、更にこの大浦湾1年目に、N1,N2の工事が始まり、C護岸の「地盤改良工事」も始まっていく。それぞれ受注しているゼネコンは別だから、並行して行うことは可能なのだ。阻止・抗議行動を行っている私たちは、高齢化し、「少数精鋭」化?し、青息吐息でクラクラする。しかし、これだけ、大浦湾の工事が大々的に始まったのだからと、しばらく半日行動だったのを隔日で全日行動にしている。

ここしばらく、カヌーは半日行動が続いていた。辺野古側の護岸が閉じられ、その中に埋め立ての土砂が投下されるのは、海からは見えない。K8,K9からの土砂の陸揚げはなかなかカヌーが近づいて止めることは難しい。何度カヌーでアタックしても拘束され、解放まで長い時間をかけて運ばれることの繰り返し、ということもあり、朝7時半集合、12時か13時頃までに終了をしていた。かつては、土砂の運搬を遅らせようと、安和に行き、ロープを結んで抵抗したりした。しかし今、大浦湾の本格工事が始まり、海の行動は辺野古に集中し、なお、全日の行動も復活させようとなった。一気には大変なので、火、木、土の隔日が全日行動となった。海の戦いが本格的に始まって10年。かつて当たり前のように、7時半から17時、時には18時まで行動していたのに、久しぶりの全日行動はきつい。そう、みんな10年歳を取ったのだし。この30度を超える炎天下に、海の上に終日いるのも、それだけで体力を消耗する。今回は台風10号の影響で連日の海上行動は中断し、少し休息がとれたけれど。

大浦湾の工事は、今後、どんどん並行して進んでいくのだろう。「不可能」な、手を付けてはいけない領域に防衛局は踏み込み、かなり難航―頓挫するのではないかと、私は思ったりしたが、違うのかもしれない。技術者にとって、企業にとって、新しい不可能に思えることにチャレンジするのは、「技術者冥利に尽きる」とやりがいを感じているのではないか。飛躍するけど、もろもろの「科学技術」は、軍事的要請で開発されてきているし。

(2)   サンゴの異変

辺野古の浜からカヌーを漕ぎ出す。浅い海域からすでに、気になるほど白い部分が、各所に見える。抗議船に乗り船の上から見える海の中も至る所白い。長々(辺野古側と大浦湾との境の長島の間)を抜けて大浦湾に出ると、深い海なのに、部分部分白く見える。

珊瑚が白化しているのだ。ダイビングをよくする仲間が、こんなのは初めてだ。異常だと。

回6月に来たとき、サンゴの移植が始まって、シュノーケルグッズが必要だと感じて、今回用意してきた。カヌーに長年乗っている割には、泳ぎも心許なく、水も怖い私でしたが、今回、海に入ってみました。20年ぐらい前、シュノーケリングを教わりましたが、それから長い間があり、海の中を見たのは久しぶりでした。私にとっては、きれいなものでした。紫やピンクや黄緑のサンゴがあり、確かに所々白化しているのですが、黒や黄色の魚が泳ぎ、こういう世界に引きつけられてダイビングをする人たちがいるんだなと実感。けれど同じ所を見たダイビングをする仲間は、「これはもう死の海だ」と。サンゴから共生している褐虫藻が高温になって離れていくとサンゴの色が鮮やかになり、その後白化していくのだそうだ。海水温が下がれば戻ることもあるらしいが、計る海水温は31度を下らない。

 ここだけではなく、各地でサンゴの白化がいわれているけど、ここはかなり酷いとのこと。「気候変動」で、台風の発生する場所も動きも変わってきた。南の方で発生して北上して沖縄を通るというコースがまれになってしまった。かつて「台風銀座」といわれた沖縄を通るコースではなく、日本近海で発生して、日本列島に上陸していく。もちろん、台風が直撃するのは、多大な被害を及ぼし、歓迎すべからざることだけど、海にとっては台風で海水が引っかき回されることなく、海水温があがっていく。 

 そして、サンゴの移植。拒否していた県は、相次ぐ裁判に敗訴し、やむなく移植許可を出した。高温期を避けるなどのいくつもの条件を出しているにもかかわらず、防衛局は全く無視をし、この間も、ダイバーを乗せた作業船が大浦湾に出ていた。何度も書くが、「丁寧」に行われても8割は死滅するという移植を、この高温期に強行している。「サンゴの保護」、「環境保全」といいながら、その実、工事に関わる箇所からサンゴをどけている感覚なのだろう。

(追記)94日、県は、私たちの要請に応じて?潜水調査を行った。同日、防衛局は県に「当分の間、サンゴ移植を中止する」と連絡してきた。

(3)   海保との会話

 カヌーを拘束すると、海保はカヌーをずっと押さえている。すぐにGB(海保のゴムボート)に乗ることもあるが、私たちがそこに居ることによって工事が止まっていたりすると、GBに乗らずにしばらく留まることもある。海保と自分が1対1になり、海保と話をするよいチャンスだ。カヌーメンバーは、それぞれ個性に応じて会話をする。

 一人一人は普通の青年で、話に応じる海保も多い。このごろは、なるべく「抗議調」でもなく、お説教めいたことも言わずに、「ウチナーンチュですか」「ここは長いんですか」「大浦湾潜ってみましたか」などと聞く。今回は、前に書いたが、「海保なのに海を守らないんですか!」と怒鳴ったりもしたけど。「みなさんの安全を守っています」「仕事ですから」と海保は言ったりする。「あの戦争の時も、そう言って、みんな言われた通りに戦争に行って死んでしまったり、人を殺したりしたんだよ」、と言ってみたりもしたけれど・・・。でも、今回は、こちらが言うことに、返事はしないけれどうなずく海保が何人かいた。

 今回2つ紹介。飛び込んで私のカヌーを捕まえた海保。「体調は大丈夫ですか?」と必ず聞く。自分で捕まえておいて大丈夫ですかもないけれど。これはマニュアルなのだ。「金属の杭が目の前で打ち込まれて気分いいわけないですよ。気分悪いですよ」と答えると、「じゃあ救急車呼びますか?」だって。「気分悪し」→「救急車」、これもマニュアルなんだけど、怒るというか笑うというか「海に救急車呼んでくれるのかな」。

 GBは私たちを乗せると長い時間ゆっくりと走行する。「安全のためです」というが、早く解放して、何度もカヌーにアタックされるのが嫌なのだろう。歩く方が早いだろうというくらい、ゆっくり海の上を操船する。トイレに行きたい時もあるし、今回は何より暑い。40分乗っているのだから。時々、「ひしゃく貸して下さい」と言って、海の水を頭に掛ける。熱中症予防に。この時も、「貸して下さい」―「何に使うんですか?」「水を掛けたいです」―「我慢してください」だって。「体調大丈夫ですか」とか「熱中症に気を付けてください」などというのに、自分の頭で考えないか、意地悪なんだか。まあ、海保もいろいろだけど、ひしゃくを断られたのは初めて。

<陸では>

(1)安和での土砂運搬が始まる

 前回沖縄に来たときに、安和での衝撃的な事故が起こった。6月28日、ダンプに轢かれアルソックの警備員が死亡し、市民が重体となった。運動の中での、初めての直接の死者だった。さすがに、それからダンプの出入りは止まっていた。再開されたのが8月22日。事故の原因発表も安全対策も、何も発表がないまま、始まった。そもそも、死者が出たのに、運転手は逮捕されてなく、重体のOさんにも近くにいた人たちにも、事情聴取はないという。

 台風10号で、海の行動が中止になったので、安和に何度か行った。ダンプの入口に、「TK(帝国警備)」の警備員が30人ぐらい。出口にアルソックの警備員が30人ぐらいいた。

入り口では、ヘルメットの形をした「顔だけロボット」のような機械が、「車両が通ります。危険ですから近づかないでください」と、ひっきりなしに繰り返す。出口のアルソックはもっと、へんてこりんで笑ってしまう。警備員の誰かが(リーダーとは限らない、みんな口元にマイクを付けている)「車両が通ります。危険ですから近づかないでください」と言うと、他のみんなが同じ言葉を復唱する。卒業式の呼びかけのようだと思ったけど、誰かは、小学校の学芸会のようだと。言っている方が恥ずかしくないのだろうか。どうしてこれが、「新たな安全対策」になるんだろう。

 再開何日かは、ちょうどゲート前のように、「規制」をして、歩道を誰も通さないようにして、まとめてダンプを50台ぐらいずつ入れていた。入口が終わると今度は、出口をやはりまとめて50台ぐらいずつ出していた。規制が終わると歩道は通ることができた。それが、次の週には、入り口は常時「規制」をかけ、ずっと歩道をふさぐようになった。こんなのありなんですか?と機動隊に言ってもラチがあかない。何か、このエリアだけ、「治外法権」のような「奇妙な空間」になっている。一緒に行ったKさんは、封鎖された歩道の前で、音楽に合わせ、カチャーシを1時間ほど踊り続けていたけど。

そして、事故前は1200台を、牛歩によって800台ぐらいに抑えていた台数が、再開して、300台、400台、500台、600台とどんどんと増え、こちらに戻ってから報告を見ると、もう1900台を超えている。(94日)。

 重体だったOさんは、幸いなことに、自宅近くの病院に転院して、リハビリに励んでいる。本人は車いすでも現場に来たいと。

(2)ゲート前

 ここにも、金、火、水、木と行く。曜日によって担当団体、司会が違う。夏休みなので、若者もパラパラと来ていたが、やはり中心は高齢者。13回のゲート前での司会はさすがに疲れており、歌やシュプレヒコールと担当者に振ってはいるが、意気込みというか元気がなくおざなりになっている。この暑さで、しょうがないよね。ダンプ、生コン車は各回100台ぐらい入っている。安和が中断してから、かなり増えているという

 水曜日、担当は「平和市民」、木曜日「ヘリ基地反対協」は、司会を交代しながら、元気に、歌、アッピールとうまく回している。私も頼まれて、海の報告をした。アピールをして戻ると、隣に座っていた人が、「ぶぶぶ」(月1回お弁当を作ってくれる人たち。遊ぶ・学ぶ・喜ぶのぶ・ぶ・ぶ)のAだと私に声をかけてきた。それから、「船に乗るには誰に連絡したらいいんですか?」と聞いてきた人もいた。スピーチに反応があると嬉しいですね。「平和市民」はみなさん持ち寄りの昼食なので、いつも食べさせてもらっている私は、この日は太巻きを作って持って行った。コーヒー、ごぼう茶、甘味と、お腹も気持ちも暖かくなった。

<その他>

(1)   エイサーを見る

 日曜日、沖縄市(コザ)で全島エイサー祭りをやっているというので、バスで行った。エイサーは好きで、DVDまで買ったりしていたのに、辺野古の運動を中心に沖縄に行くので、エイサーをやるようなお盆の時期とかは、工事もなかったりして、本場のエイサーにめぐり会えていなかった。もともと旧暦のお盆の日に行うようだが、今は、各地それぞれ開催するので、ちょうど沖縄市での開催を見ることができた。

 高速バスの沖縄南インターを降りるとすぐ、コザ運動公園はあった。開会より1時間早く着いたけれど、広い広い公園に、まるで、花見の場所取りのようにブルーシートが敷かれていた。早い人は昨晩から来ていたとか。3日間の最終日で15団体が参加する。30人ぐらいのグループから多いところは192人だとか。3歳ぐらいの小さい子から大人まで男女が、大太鼓、パーランクー、組踊り、チョンダラー(おどけ役)に分かれ演舞する。踊りながら打つ太鼓、鮮やかな衣装、切れのいい動作、とても好きなのだ。そろっていながら、軍隊調のピシッとした所作ではなく、一人一人の息吹や個性や表情を感じる。「勇壮」っていうのかな、かなり激しい動きをしている。

 構成はそれぞれで、組踊りも全体の動きの中に調和している。私が気に入ったのは、「琉球太鼓」というグループ。192人で構成していたが、見ると大太鼓に女性も多い。若い子が、生き生きというか嬉しそうに打っている。実は私は和太鼓をやっていた。

 かつて、辺野古の隣の集落に、夜にお祭りに向けて練習をしているのを見に行ったことがある。東京の都会では、若者がなかなか参加しない風潮の中、小学生、中学生、高校生が、先輩や大人の指導で練習しているのを見て、ああ、沖縄の強さは、この地域共同体の基礎があるからだと、感心したことがある。エイサーをやるのはヤンチャな奴が多くて、そういう先輩に、「おまえも入れ」と言われて入った人も多い。今は、それが嫌で、うまく逃げる人もいるとか、話してくれた人がいた。

 帰り、バスが来なくて(沖縄バスの遅れは半端ではないのだけど)2時間近くバス停で待った。(バスのトラブルで1本欠便になったとか)30歳前後の女性と、どこからですか?と話すうちに、実は辺野古に行ってるんですと言ったら、「私も学生時代、辺野古に行って船に乗りました」って。そして彼女は「シールズって知ってますか?」と聞いてきた。懐かしい話だった。2015年安保法制の時だから、もう10年近く経つ。当時の人たちはみんなバラバラになっているけど、あの体験はそれぞれの生き方に影響を与えていると。この思いがけない邂逅は、ちょっとうれしかった。

(2)   いくつかの交流

 今回は夏休みということもあったのか、いくつかのグループが辺野古を訪れていた。他の国からも。牧師のSさんが案内してきたのは、台湾からの「原住民」の方たち。土地と言葉を奪われ、沖縄と同じものを感じます、と。

 国連で働くスリランカの人も、牧師Kさんの説明を丁寧に聞いていた。台風で残念ながら、海には出られなかったけれど。

 そして転勤したN牧師の変わりに大学に赴任したPさん。日本生まれの、本名を名乗る在日の方。カヌーの練習をして、初めて現場に参加。「百聞は一見にしかず」ですねと。続けて何日かカヌーで一緒に行動。

 そういえば、瀬長亀次郎さんが、「弾圧は抵抗を呼ぶ、抵抗は友を呼ぶ」って言ったっけ。

 

 

 昨年、韓国、台湾、沖縄の平和キャンプが沖縄で行われた。もろもろのつながりの中で、韓国へのツアーが行われたり、個人で台湾や韓国を旅しているUさん、同じく台湾、韓国に長期滞在する日本山妙法寺のK上人。そう、ずっと若手の20代~40代の人たちが動いている。「国」という看板をしょって、にらみ合う中、ロートルの私たちとは違うベクトルからのこういう人々の交流、つながりが、平和なアジアを作っていくだろうと希望を託したい。琉球はかつて「万国津梁」を誇りとしていたのだから。




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